高座の花團治

蝶六改め、三代目桂花團治

昭和37年10月10日、大阪府豊中市生まれ。小学時代に「笑い」で自身の居場所を得たことをきっかけに、大阪府立桜塚高校にて落語研究部に入部。大阪芸術大学芸術学部芸術計画学科を中退後、昭和57年(二十歳)、二代目故桂春蝶の高座に一目惚れし入門。「桂蝶六」を名乗る。ラジオのパーソナリティーやテレビ番組のレポーターとしても活躍しながら、二代目桂春蝶の最後の弟子として内弟子生活を送る。昭和63年 毎日放送「落語家新人コンクール」優勝。

  • 弟子時代
  • リポーター
  • 狂言

古典落語の研究に心血を注ぐ一方、甲高い声に対するコンプレックスを解消するべく、大蔵流狂言方安東伸元(重要無形文化財総合指定)のもとで約20年間狂言を学ぶ。一時期は「森五六九」として狂言の舞台でも活動。今ではその「声」を活かした演目に定評がある。また「発声と姿勢・呼吸法」の研究はもはやライフワークとなっている。

ふるさときゃらばん

学生時代に演芸プロデューサーを夢見ていたこともあり、異ジャンルの芸能とも積極的に交流。俳優として「ふるさときゃらばん」の舞台参加や、短編映画の主役を務めた経歴を持つ。天満天神繁昌亭での独演会『蝶六の会』は15回を数え、全回大入り満員を記録。

船乗り込み

2015年4月26日、70年ぶりの名跡復活となる「三代目 桂花團治」襲名。
成功祈願のために春團治一門総出で行われた「陸の『船乗り込み』」は大きな話題となった。

船乗り込み秘話

現在、自身の経験や悩みから導きだしたコミュニケーション論が評判を呼び、多くの教育機関で教鞭をとる。企業・自治体からの研修依頼も多く、自他ともに認める「大阪で一番多く教壇に立つ落語家」である。

学生と

 
また、襲名以降、東京での独演会・名古屋の大須演芸場出演、クラシックオーケストラとのコラボレーション、エッセー執筆など、活躍の場を広げている。

クラシックオーケストラとのコラボレーション

◆講師(令和3年現在)

『大阪青山大学健康科学部こども教育学科』客員教授、
『放送芸術学院専門学校』講師、
『府立桃谷高等学校定時制夜間部』特別非常勤、
『愚か塾』主宰

◆執筆

・「花團治の落語的交友録『口(らくご)は賑わいのもと』」
月刊誌「大阪保険医雑誌」(大阪府保険医協会発行)にて連載中

・「落語の教え」
月刊「りふぶれ通信」(株式会社リフティング・ブレーン発行)にて連載中

◆俳優活動

短編映画「福井の旅」主演(2014年 木川剛志監督)
(第17回長岡インディーズムービーコンペティション「観客賞」受賞)

◆その他役職

公益社団法人上方落語協会 理事

~蝶六から花團治へ 蝶の花道~

いじめを救った「笑い」との出会い

三歳で母と死別、スカートめくりの常習犯で、幼稚園からは「面倒が見られない」との通告を受けて三回転園した幼少時代。九九を覚えるのが教室で一番遅く、夜尿、吃音、赤面症に苦しんだ小学生時代。

担任から「この子は普通の子とは違うから」と吐き捨てるように言われてショックを受け、当時の夢は「普通の子になりたい」。こんな逸材(?)を同級生が見逃すはずがなく、もれなくいじめの対象に。そんな暗黒時代の少年を救ったのが、やけくそで演じた漫才だった。人を笑わせ、褒められる喜びを知った少年。いじめを克服した彼が次にハマったのが、「一人でやる漫才」という勧誘でうっかり入部した大阪府立桜塚高校落語研究会での「落語」である。

弟(左)と
弟(左)と
蝶六

「父」になってくれた二代目桂春蝶

近隣高校の仲間とともに落語の舞台を創り上げた経験から、演芸プロデューサーを夢見るようになり、晴れて大阪芸術大学芸術学部芸術計画学科に入学。しかし、経済的理由により1年で中退することになる。失意の中、NHK大阪局の喫茶室でバイトをしながら大阪シナリオ学校上方演芸科(現・演芸・喜劇台本科)で学ぶ日々。

昭和57年(二十歳)、そんな「どん底青年」の前に、ひょろりとした顔+ギョロリとした眼をもつ落語家が現れる。

Photo by KIYOSHI GOTO
Photo by KIYOSHI GOTO

二代目故桂春蝶。その高座をたまたま観て一目惚れした青年は、そのまま楽屋に飛び込んで弟子入りを志願し、入門。青年は「桂蝶六」となった。初高座は昭和58年の『桂春蝶独演会』。千人を前にしての大舞台だった(もちろん大いに緊張し、ほぼ記憶がないという)。

その後、内弟子修業が明けて実家に戻ると、「両親が夜逃げして、家はもぬけの殻」というドラマのような事態に直面。呆然としながら為す術もなく師匠の家に戻った蝶六に、師匠は何も聞かず、居候として師匠宅に住み続けることを許してくれた。遅刻などの怠慢や粗相をした時は縮み上がるほど怒られたが、困ったときは誰よりも優しく、細い体を精一杯盾にして守ってくれた師匠だった。

コンプレックスから得た使命

Photo by MASAAKI AIHARA
Photo by MASAAKI AIHARA

子供時代からの吃音は幾分おさまっていた蝶六にとって、最大の悩みとなったのが声質。高めのキンキン声の改善方法を模索していたところ、狂言に出会う。大蔵流狂言方安東伸元に学ぶことによって声の出し方を変え、さらに俳優業などにチャレンジすることで自分なりの発声法を得た蝶六は、その方法のさらなる研究・伝授を試みる。それは発声や姿勢だけでなく、内弟子生活で学んだ師匠の教えや趣味の読書から得た知識を組み合わせた独自のコミュニケーション論になり、ブログ等で評判を呼ぶように。(しかしなぜか家庭内コミュニケーションは専門外で、バツを二つ重ねている。)

現在は天満天神繁昌亭を中心とした高座のほか、教育機関や企業などでの「講座」も多く展開している。不器用で壁にぶち当たってばかりの蝶六が歩んできた「けもの道」は、師匠をはじめ多くの方々に支えられ、いつしか三代目桂花團治への「花道」となっていたのだ。