初代 花團治

初代 桂 花團治

本名 梅本八十二郎
明治8(1875)年9月18日 – 昭和17(1942)年12月23日(67歳)

大阪市南区(現中央区)千年町に生まれる。落語家となった時期や師匠は詳らかでなく、桂花丸の名で端席で活躍していたところを、二代目桂文團治(後の七代目文治)の目にとまり、一門となって桂花團治を名乗り「浪花三友派」に加わったという。初代春團治が二代目文團治の一門となった時期より少し遅い、明治37年頃だったと思われる。しかし、しばらくして当時の新興派閥であった「浪華落語反対派」に移り、元の花丸に復している。

その後また花團治となって、大正初期には反対派と提携をしていた後の吉本興行部の寄席に出演するようになり、草創期の吉本においていわば唯一の看板芸人として気を吐いた。吉本の看板芸人第一号といったところであった。

妻のトメとの間に一男五女に恵まれ、トメは寄席の下座三味線も務めていたが、吉本の勢力が拡大し、一方で落語より漫才に重きを置くようになると、寄席の世界から身を引いて、絵画を描くことを生業としたとう。晩年には五代目笑福亭松鶴に誘われて、楽語荘同人となって落語を演じており、落語への思いは生涯続いたものと思われる。お茶屋噺を得意にし『三枚起請』『立ち切れ』『辻占茶屋』などを演じている。弟子には花柳後の三代目笑福亭枝鶴)、花三、花次(二代目花團治)、花之助らがいる。

二代目 花團治

二代目 桂 花團治

本名 掛川晴美(春敏トモ)
生年不詳 – 昭和20(1945)年6月15日

大正4・5年頃に初代花團治へ入門し、花次と名付けられる。修業時代があけて落語家として活動を始めた頃に、上方落語界は吉本が統一することになり、大正15年には若手落語家が中心となったグループ「花月ピクニック」のメンバーとなって活躍し始める。

花月ピクニックには、後の五代目笑福亭松鶴や初代桂小春團治らがいた。しかし、昭和初期になると、落語の衰退期と重なる不運に遭い、漫才重視の方針から、花次も桂金之助と軽口のコンビを組まされる。兄弟子の花柳も桂花咲とコンビを組まされた。

その後は、若手落語家が中心となって結成された吉本のバラエティ一座「喜劇民謡座」に加入して幹部となり、一座の人気俳優となるも、落語への愛着は捨てきれず、昭和12年に結成されていた楽語荘へ加入。

師匠の没後に五代目松鶴の勧めで、二代目花團治を昭和19年に襲名したが、翌年6月の大阪空襲で亡くなった。得意ネタとして『黄金の大黒』『いかけや』などがある。

関連系図

桂花團治 代々 関連系図

資料

落語の速記本の画像

初代花團治の落語が載る大正から昭和初期にかけての落語の速記本。『出来心』は『花色木綿』、『よいどれ』は『らくだ』、『偽棟梁』は『棟梁の遊び』、そして『真田山』。

出番順の写真

大正初期の寄席の番組。賑江亭は大阪の堀江にあった寄席で、初代花團治がトリを務めている。

泥鰌掬い画

初代花團治筆「泥鰌掬い」
(三代目桂春團治所蔵)

チラシの画像

二代目花團治が花次時代に加わった「花月ピクニック」と「喜劇民謡座」のチラシ。 写真前列右から二人目が二代目花團治。

案内状の画像1 案内状の画像2

初代花團治が『立ち切れ』を演じる昭和13年に開催された「上方はなしを聴く会」の案内。

文と資料 前 田 憲 司